2011年08月18日

#0031

#0031.jpg
【未来を信じる力】
1945年8月6日広島、そして9日長崎、人類史上はじめて原子爆弾が人間の頭上に投下された。日本は、世界ではじめてのヒバク国となった。
そして、2011年3月11日、この国は2度目のヒバク国となった。愚かにも、今度は自らの手によって。

8月9日は、長崎の原爆の日であるのと同時に、音楽家ドミトリー・ショスタコーヴィチの命日でもある。そして、ショスタコーヴィチの『交響曲第7番 レニングラード』が、レニングラードで初演された日でもある。その日、レニングラードは、ナチス軍に包囲されていた。いつ攻撃されても不思議ではないなか、この交響曲は演奏された。そして、レニングラード市民に生きる力を与えた。音楽の力がしめされた一日。

東日本大震災からひと月半たった4月23日、東京オペラシティでひとつのコンサートが開かれた。シルヴァン・カンブルラン指揮、読売日本交響楽団によるチェコ特集のプログラム。海外の指揮者やプレイヤーの多くが日本から避難しているなか、カンブルランは早くから予定通り公演を行なうことを表明していた。
この日のプログラムで、日本人へのメッセージとして、カンブルランはこう書いている。
「親愛なる聴衆へ
親愛なる日本の友人たちへ
あなたがたを襲った惨劇について詳述するには、“言葉”はあまりに無力だ。苦しみの度合いを表現するにも、“言葉”はあまりに無力だ。あなたがたに対する私の気持ちを言い表すにも“言葉”はあまりに無力だ。危機に直面したあなたがたの、勇気に満ちた高潔な行動を、私がいかに尊敬の念をもって注視しているかを説明するにも、“言葉”はあまりに無力だ……
まさにこのような状況においてこそ、芸術、特に音楽が、私たちを固く団結させる力を発揮します−そこに“言葉”は必要ないのです−。音楽は、未来を前向きに信じるエネルギーを、私たちに与えてくれます。“愛情”や“ヒューマニズム” “団結心”などを表現するのに、音楽はとても優れています。音楽は私たちの心をひとつにし、試練を乗り越える大きな力となるのです!
“幸せ”や“喜び”などといった感情は、このような時にも存在していなければいけませんし、これからも存在し続けていかなければなりません!
私たちの最大級の尊敬、感動、友情を、あなたがたへ贈ります。
2011年3月19日
あなたがたの、シルヴァン・カンブルラン」
この日演奏されたレオシュ・ヤナーチェクの『タラス・ブーリバ』、『シンフォニエッタ』は素晴らしかった。カンブルランの言う通り、「未来を信じるエネルギー」を与えてもらった。
そして、このとき、ヤナーチェクの曲でダンス作品をつくることを決めた。未来を信じるために。同時に、8月9日の長崎の日に上演することも。
昨年の8月9日は、ショスタコーヴィチの命日として、小澤恵美子 solo-DANCE workで、彼の遺作である『VIOLA SONATA』を上演した。今年も、同じ日に再演するつもりでいた。
しかし、今回は、子どもたちの未来を奪う原発事故もふくめた、継続するこの未曾有の大惨事のなか、未来への希望を強く祈るための作品でなければ、上演はできない。そして、選ばれたのがレオシュ・ヤナーチェクの『グラゴル・ミサ』 長崎の原爆投下の日として。

震災から4ヶ月がたとうとしていたとき、その稽古ははじまった。最初の稽古が終わったとき、
「被災地へ行かなければ」
ふと、そう思った。
「いま、行かなければ」
何かに突き上げられるように、そう思った。
そして、その3日後、私は見渡す限りの廃墟に立っていた。
息をのむ。
言葉もない。
スケールが違いすぎる。目の前に見ている光景と、自分が把握できるスケールが折り合いをつけられない。歩いてみる。身体もまた、この場所と折り合いがつけられない。私のなかで失われた「自然」とは、こういうことなのか。
カメラのシャッターをきってみる。だが、フレーミングされた写真は、何も写すことができない。遠景で撮ろうが、パノラマで撮ろうが、落ちている日常の破片を撮ろうが、何も写らない。この広大な廃墟の何も写すことはできない。ビデオもまた同様。突如広がったこの廃墟を、写すことは不可能だった。
報道からは伝わらないのは、この風景のスケールの他にもうひとつ、死者の気配。行方不明者と合わせて3万人近い人たち、その数でもけたちがいなスケールのその人たちの気配。
瓦礫のいたるところに、赤い小さな旗が立っている。その旗には、日付が書いてある。そこが遺体発見場所。胸が苦しくなるほどの死者たちの気配。やはり、言葉にならない。どんなイメージも像を結ばない。
はたして、私はこの廃墟に何を見ただろうか。
何も見ていない。
私には、何も見えていない。
横に広がる想像を絶するその距離ではなく、見えない縦に深くもぐりこんだその距離を感じない限り、何も見えない。
それは、3万人近い死者、行方不明者ひとりひとりとの距離であり、大事な人を失ってしまった数えきれない人たちひとりひとりとの距離であり、それらひとりひとりが抱えたそれぞれの悲しみとの距離。
はたして、今回の『グラゴル・ミサ』で、その距離のなかに入ってゆくことができるだろうか。
あの瓦礫だけになってしまった場所であれ、全滅の田園風景であれ、壊滅状態の漁港であれ、半壊状態の家が並ぶ場所であれ、そこに立って痛烈に感じたことが、ひとつだけある。
あの広大な廃墟に立って、自分の無力感と人間の弱さ、愚かさを感じたのと同時に、人間の生存が危機にさらされたからこそ生まれる、生命の力。
それは、「再生」や「復興」ではなく、その方向に可能性の道があるとすれば「新生」であると。そのためには、圧倒的な希望が必要であると。それを信じる力が必要であると。
私たちはいま試されている。人間が試されている。大きな悲劇のなか、試されている。人間が人間であることが試されている。はたして、私たちは「新生」できるだろうか。
子どもたちの未来を、愚かにも繰り返された悲劇のなかで殺してはならない。

広島を経験した小説家、原民喜はこんな文章を残している。
「まさに私にとって、この地上に生きてゆくことは、各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。それから、日毎人間の心のなかで行はれる惨劇、人間の一人一人に課せられてゐるぎりぎりの苦悩―さういったものが、今は烈しく私のなかで疼く。それらによく耐へ、それらを描いてゆくことが私にできるであらうか」
残念ながら、原民喜は耐えられなかった。その後、彼は自殺を遂げる。
そのこともよく記憶しながら、私たちは耐えなければならない。一方では、悲劇を繰り返さないために、一生をついやして「原爆の図」を描きつづけた丸木位里、俊夫妻もいる。彼らのこと、彼らが描いた渾身の「原爆の図」もよく記憶して、耐えなければならない。
今回の上演が、私も含めたひとりひとりにとって、未来を信じる力となることをただ一心に祈っている。

小沢恵美子 solo-DANCE WORK
レオシュ・ヤナーチェク『グラゴル・ミサ』
2011年8月9日 長崎原爆記念日
公演パンフレットより
posted by NIHEI at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | #0031〜#0040 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月11日

#0030

#0030.jpg
【音楽の力】
2011年3月11日、私は中学のときの同級生と、3年振りに会う約束をしていた。
午後12時30分、隣町の駅での待ち合わせ。電車を降りると、小さな駅の改札前に止めた車に寄り添うように、彼女は笑顔で待っていた。体調を崩していたと聞いていたので、元気そうで少し安心した。と、そのとき、携帯が鳴った。中国の映画監督の班忠義さんからだった。
「今、どこ? 東京?」
「地元ですけど」
「そう、今ね、二瓶さんの地元にいるよ。会える?」
「仕事?」
「そう、仕事」
「何時ごろがいいですか?」
「3時ぐらいには終わると思うね」
「それじゃあ、3時に、駅でどうですか」
「いいよ」
同級生に事情を話し、昼食だけをとることにする。同級生との久しぶりの話は、半分以上は辛いものだった。人生、長く生きているといろいろなことがある。辛いことも含めて、起こること全てを受け入れながら、人生をいかに実り豊かなものとできるか。人とのつながりのなかで、今このときを謳歌できるか。そんな話をしたように思うが、それがうまく彼女の慰めになったか、癒しになったか、心もとなくもあった。
あわただしく昼食を終え、来たときとは別の駅から、地元の駅に向かった。
午後2時46分、まもなく目的の駅に着こうとしたそのとき、スピードを緩めはじめた電車が、突然はげしく揺れ、急停車した。バイクと接触して、そのまま引きずったのではないかと思うような衝撃が走った。しかし、電車は停車しても、その衝撃のまま、はげしく揺れつづけた。横に、縦に、今にも倒れんばかりに、これでもかと長く揺れつづけた。それが、何度も何度も繰り返された。外を見ると、道路標識が大きく揺れていた。すぐに班さんに電話を入れるが、すでに携帯電話はつながらなくなっていた。
東日本大震災。私の住む場所は、震度6弱だった。今まで経験したことのない、強く長い揺れだった。船酔いをするような、この長い横揺れには、この後、余震として連日苦しめられることになる。
30分後、電車はゆっくりと、人が走る程度のスピードで、まさに人に導かれながら駅のホームにたどりついた。
駅は、すでに人でごったがえしていた。何度も班さんに電話を入れるがつながらない。携帯電話がつながらないこの状況が何を意味するのか、このときはまだわからなかった。気づけば、駅前にあるひとつだけの赤い公衆電話には、長蛇の列ができていた。地元なので、知っている別の公衆電話まで行ってみた。誰も使っていなかった。そこから電話をすると、班さんとやっとつながった。そして、15分後、駅で会うことができた。
電車は止まっていたが、このときまだ私は事の重大さを理解していなかった。電車もやがて動くだろうと、のんびりしていた。班さんと近くの喫茶店で、電車が動きはじめるのを待つことにした。まだ危機感はなく、久しぶりの再会を喜び、班さんの新作映画『亡命』の話などをしていた。班さんも自宅にやっと電話がつながり、家族の無事は確認できた。
だが、今まで経験したことのない大惨事が進行中であることを、間もなく知ることになる。結局、電車はその日は動かず、班さんは家族が心配で、タクシーで帰ろうともしたが、都心をはじめいたるところで渋滞がはげしく、やめた方がいいとタクシーの運転手に言われた。ホテルもどこも満室だったが、何とかキャンセルがでたホテルで部屋をとることができた。
(私の家のなかは、壊滅状態になっており、およそ人を泊められる状態ではなくなっていた)
夜遅く家に帰ってから、あの東北地方を襲った津波の映像を見ることになる。そして、各地の海岸で数百体の遺体が目撃された情報などがランダムに伝わり、その被害状況に言葉を失う。
翌日、午前中に2本だけ電車が動いた。班さんもやっと乗ることができたのだが、自宅までなんと5時間もかかったという。
やがて、福島第一原子発電所の事故の情報が伝わり、未曾有の自然災害の上に、未来を否定する重く暗い影がおおった。

この大震災によって、ローカル線一本しか走っていない私の住む田舎は、その後10日ほど、ほぼ陸の孤島となってしまった。
その間、計画停電もあった。夜7時、突然プツリと電気が全て消えた。その瞬間、窓の外が明るくなった。非常灯でもついたのかと思い、外へ出てみると、はたしてそれは満月だった。月明かりが、これほど明るいものだったとは。星明りなど比べものにならないほど、夜の空を支配するように銀色の光で満たしていた。
ラジオも24時間、震災について情報を伝えつづけていた。何日目かに、震災に遭われた人たちの気持ちを少しでも癒せればと、音楽を流すようになった。ほとんどが、ビートルズの曲だった。しかも、ジョン・レノンの曲ではなく、ジョージ・ハリスンのものが多かった。特に、『ヒア・カムズ・ザ・サン』は、各局が何度も何度も流していた。ちょっと意外でもあり、ちょっと面白かった。ジョージの「バングラディシュ」の救援コンサートを思い出す。
まったく身動きがとれないこの10日間、私には考えることしかできなかった。ただただ考える。いったい何ができるかと。今、この状況で私に何ができるのかと。すでに、福島第一原発の予測不能な事故は、伝えられており、広河隆一さんや森住卓さんらのフォトジャーナリストが、現地に入っていることも伝わってきていた。
この原発事故を知ったとき、すぐにある人たちの顔が浮かんだ。
丸木位里、俊夫妻。二度と原爆の悲劇を繰り返さないようにと、一生をついやし原爆の図を描きつづけた。その壮絶な巨大な画は、現在、埼玉にある原爆の図 丸木美術館で見ることができる。
そしてもうひとり、ウクライナの歌姫ナターシャ・グジー。彼女は、6歳のときにチェルノブイリで被曝している。その後、日本に渡り、ウクライナの民族楽器バンドゥーラを弾きながら、チェルノブイリの悲劇を繰り返さないようにと歌いつづけている。
丸木美術館では、以前パフォーマンスをやらせてもらっていた。ナターシャとは、「国際フォトジャーナリズム展」などで、横浜や新宿のコニカ・ミノルタでいっしょになっていた。
愚かにも自らの手で、広島・長崎につぐ二度目のヒバク。警鐘を鳴らしつづけた丸木夫妻とナターシャに申し訳ない気もちでいっぱいだった。
そして、東北の人たちへの支援と、このヒバクについてあらためて記憶しなおす場としてのチャリティ・コンサートの企画が、頭のなかでかたまっていった。場所は、原爆の図 丸木美術館、そしてナターシャ・グジーに参加してもらう。ここから、東日本大震災チャリティ・コンサート「with YOU」がはじまった。
このとき、私はたしかに「音楽の力」を信じていた。

同時に、演出の仕事とは別に私が音楽活動として参加しているバンド、 Guelb er Richat ensemble(ゲルブ・アル・リシャット・アンサンブル)の新宿歌舞伎町のドイツ酒場「昇華堂」で予定されていたライブが迫っていた。
様々なイベントが中止になるなか、このライブを中止にしなければならない理由は見あたらなかった。「昇華堂」も、ほとんど被害がなかった。そして、ライブは強行された。チャージ代はすべて支援金とすることに決め、同時に、ライブ音源のCDと、今までの歌詩と画で構成した豆本をつくり、チャリティ・グッズとして販売することにした。
3月21日、交通機関もままならないなか、たくさんの人が「昇華堂」に集まった。チャリティ・グッズもたくさん売れた。
ユーゴスラビア崩壊のときに、弾丸飛び交うサラエボで、ベケットの『ゴドーを待ちながら』が、スーザン・ソンダク演出で、地元の役者たちによって上演された。絶望と希望を見い出そうとする人々の意志がまざりあった夜。あのときのサラエボの夜も、こんな感じだったのだろうかと、その日の重苦しい不安な夜を、今でも身体の記憶として鮮明に思い出す。
つづけて、4月3日に阿佐ヶ谷の名曲喫茶「ヴィオロン」でライブ。この日もたくさんの人が集まった。特に、飛びこみのお客さんが多かった。家族連れもいた。話をすると、とにかく「生の音楽を聞きたかった」と、みな口をそろえた。
この間、オーケストラの公演にも行ったのだが、ホールは満員だった。みな、音楽を聞きたがっている。生の音楽を求めている、強くそう感じた。

そして、チャリティ・コンサート「with YOU」は、少しづつ動きはじめた。丸木美術館も、ナターシャも、すぐに快諾してくれた。
震災の直前に、私はあるコンサートを観ていた。中国の古箏を弾きながら歌う謝雪梅。時空を越えるようなその歌声に、私は魅了されていた。彼女は、四川大地震のときに、いたるところでチャリティ・コンサートを展開していた。その活動にも感銘していた。すぐに彼女にも声をかけた。「ぜひ、力になりたい」という返事を受けとった。
「昇華堂」のマスターのお父さん津田雄三さんは、元読売日本交響楽団のファゴット奏者だった。ベルリン・フィルのトローク氏に師事したこともあり、「昇華堂」には、ベルリン・フィルのメンバーも来日すると足を運んでいた。津田さんとは「昇華堂」で知り合い、大の仲良しになっていた。僕の朗読とコラボレーションしたこともある。今、人の呼吸でもある、木管の響きは、人の心を強くゆさぶるとだろうと思った。「人は楽しむために生まれてきた」と口癖のように言っていた明るい津田さんが、この出演の依頼のときは、見たこともない真剣な表情で重くうなずくだけだった。楽しむことを奪われた人たちのことを、悔しい気持ちで思っていたのだろう。
ある古い友人たちとの飲み会。互いの無事を確かめ合いながらの酒席の話題は、やはり震災のことばかりだった。そんななか、進行中のチャリティ・コンサートの企画の話をすると、「俺も参加できないかな」とそのなかのひとりがつぶやいた。シテ方宝生流の金井雄資。「もちろん!」私はすぐにこたえた。
メンバーがそろった。丸木美術館は埼玉にあるため、もう一ヶ所都内で開催したかった。金井さんが参加することになり、以前から気になっていた代々木能舞台に打診をしてみる。了解を得ることができた。
問題は、スケジュールだった。みな、あまりにも忙しい人ばかりだった。綱渡りのようなスケジュール調整となった。
結果、6月5日(日)代々木能舞台。参加者は、ナターシャ・グジー、謝雪梅、金井雄資、Guelb er Richat ensemble。
6月11日(土)原爆の図丸木美術館。参加者は、ナターシャ・グジー、謝雪梅、津田雄三、Guelb er Richat ensemble。
震災から、ちょうど3ヶ月がたっていた。
もっと早く実現したいと思っていたのだが、いま思えばこれだけ多岐に渡るジャンルの参加者とこの規模で、よくこの時期に実現できたと今は思う。
参加者、それぞれのステージは、華やかで明るく、来てくれた人たちを魅了し、同時にそれぞれのメッセージは感銘を与えた。唯一のクレームは、「チケットが安すぎる」というものだった。
チャリティ・コンサートは、観にゆくものから、参加するものへと、今回の震災から変わったと思っている。だから、「これだけのアーティストが参加するのだから」とか、「これだけの規模だから」というところから、チケット料金を設定しなかった。ひとりひとりの参加費として設定した。公演後に集まったアンケートでも、ほとんどの人が「参加」できてよかったとコメントを残している。そして、「生の音楽が聞けて、本当によかった」という声も。
どちらの場所も満杯で、大成功だった。何よりうれしかったのは、この企画が、参加者、場所、それぞれがひとりひとりのつながりから生まれ、新たなつながりを生んでいったこと。そして、足を運んでくれたお客さんも、個人としてそこに参加してくれた。つながるために。そんなお客さんひとりひとりの顔を見ると、「実現できて本当によかった」としみじみ思った。と同時に、「音楽をやっていてよかった」と。あるいは、「音楽があってよかった」と。
原発などというコントロール不能な悪魔の産物を人間は発明したけれど、同時に、「音楽」という素晴らしいものもつくった。そして、音楽にはたしかに力がある。音楽は、その悲劇の早い段階でもっとも力を発揮するともいえる。
だが、音楽も、この進行中の悲劇のなかで試されつづけている。実際、震災後につくれた曲は、1曲しかない。まずは、今までの作品が淘汰を受けるように試される。
これは、音楽だけではない。すべての表現が試されている。淘汰の波を受けている。地震と津波だけでなく、原発事故によって、人間の根幹自体が試されているのだから。表現とは、人々の営みの根幹にあるはずだから。

先に書いたオーケストラのコンサートとは、シルヴァン・カンブルラン指揮、読売日本交響楽団によるチェコ特集のプログラムだった。海外の指揮者やプレイヤーの多くが日本から避難しているなか、カンブルランは早くから予定通り公演を行なうことを表明していた。
この日のプログラムで、日本人へのメッセージとして、彼はこう言っている。
「音楽は、未来を前向きに信じるエネルギーを、私たちに与えてくれます」
そして、
「“幸せ”や“喜び”などといった感情は、このような時にも存在していなければいけませんし、これからも存在し続けていかなければなりません!」
この日演奏されたレオシュ・ヤナーチェクの『タラス・ブーリバ』、『シンフォニエッタ』は素晴らしかった。カンブルランの言う通り、未来を信じるエネルギーをもらった。そして、ヤナーチェクの曲でダンス公演をつくることを決めた。8月9日の長崎の日に上演することも。
表現それぞれは、役割を果たせる時期というものがある。今後、様々な表現がそれぞれの役割を、試練を受けながら果たしていくだろう。
そして、悲劇のなかのひとりひとりの声に寄り添う本当の旅のなかで、次の試練がはじまる。

ニ瓶龍彦   2011.8.6 広島の日に
フィリア・プロジェクト メールマガジン 38より
posted by NIHEI at 14:55| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月02日

#0029

#0029.jpg
ショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』をDVDで観る。
演奏は、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、指揮はマリス・ヤンソンス。演出は、マルティン・クシェイ。
2006年6月にアムステルダム音楽劇場で録画されたもの。
マルティン・クシェイの他の演出作品を知らないので何とも言えないのだが、今回の現代に置き換えられた『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、きわめてヨーロッパ的であり、豪華で、かつクールな舞台装置や衣装は、その内容とはかかわりなく思わず笑いがもれてしまう。それは一言でいうと、古いということ。それはやり過ぎという滑稽さに映る。演出家の時代といわれた80年代を思い出してしまう。
この80年代的な演出で止まっている人は、実は世界にはけっこういる。美術家でもあるベルギーのヤン・ファーブルもその一人。書かれたテクストとは別に、彼の演出ははっきりと80年代で止まっている。80年代的過激さと言っていいかもしれない。世界が保守、原理主義に走った80年代であるから、過激と言っても、たかがしれている。
それを、たいそうな意味づけをしてありがたがるこの国の体質は、昔から変わらないのだが。
そうは言っても、ショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の舞台を、DVDであれ観られるということは貴重な体験だ。
この後に作曲される引き裂かれた交響曲『第4番』を理解するうえでも、この『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は重要な位置をしめしている。
ゴーゴリからひきついだアイロニーと暴力が、ロシア・アヴァンギャルドを代表するメイエルホリドやマヤコフスキー、ロドチェンコたちとの演劇体験が、この作品では結実している。
そして、そのむきだしのショスタコーヴィチが向かった次の交響曲『第4番』の第一楽章と第二楽章に、それは見事に結実する。
そして、プラウダ批判。
それを受けての第三楽章。
ショスタコーヴィチが『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を作曲し、『交響曲第4番』に取り組んだ1930年代半ばは、まさにロシアの歴史を露呈させ、そして世界の20世紀を象徴的にあらわしている。
だから、そこに保守的、原理主義的時代の80年代的演出をもちこむのは、まさに逆行していると同時に、現在をよくあらわしているともいえる。
posted by NIHEI at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月01日

#0028

#0028.jpg
『Leaving Home Orchestral Music In 20 Century』第4集
「Three Journeys Through Dark Landscapes」
『Leaving Home Orchestral Music In 20 Century』は、サイモン・ラトルのガイドによる全7巻にわたる20世紀音楽旅行。
この第4集では、暗黒の時代における権力と音楽家の関係に迫る。
とりあげられるのは、ハンガリーのバルトーク、ソ連のショスタコーヴィチ、そしてポーランドのルトスワフスキーの3人。
これもまた、貴重な映像がおさめられている。
特にショスタコーヴィチは、「プラウダ批判」のときの『交響曲第4番』を巡ってのものなので、興味深い。
posted by NIHEI at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月31日

#0027

#0027.jpg
『ソビエト・エコーズ vol.2』
英で制作された、ソビエト時代の膨大な映像アーカイブを3巻にまとめたドキュメンタリー。
この第2巻は、ショスタコーヴィチを中心に編集されている。
『戦争シンフォニー』の映像も、ずいぶんここからとられている。
貴重な映像ばかり。
焼却処分を命ぜられたショスタコーヴィチの映像を、アーカイブ職員がテープに書かれたタイトルを変えて、保管しつづけたという。
特に、ショスタコーヴィチの『チェロ協奏曲第2番』を弾く、若きロストローヴィチの迫力はすさまじい。
posted by NIHEI at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月30日

#0026

#0026.jpg
1981年に制作された、アレクサンドル・ソクーロフ、セミョン・アラノヴィチ共同監督作品『ヴィオラ・ソナタ−ドミトリー・ショスタコーヴィチ』。
ソビエト時代、KGBにより没収命令を受けた作品。ソクーロフが隠蔽しつづけ、1987年のペレストロイカの到来でやっと陽の目をみた。
それだけに、ショスタコーヴィチの貴重な映像が数多くおさめられている。
遺作となった『ヴィオラ・ソナタ』創作時を基軸にして、ショスタコーヴィチの生涯、そしてその音楽世界を描いている。
当時のフィルムと写真を詩的なコラージュは、ソクーロフらしく、美しい。
ショスタコーヴィチのピアノ独奏、そしてオイストラフとの対話シーンは、特に興味深い。
最期のショスタコーヴィチの顔も、美しい。
posted by NIHEI at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月29日

#0025

#0025.jpg
ゲルギエフがナビゲーターをつとめる『音楽ドキュメンタリー 戦争シンフォニー〜ショスタコーヴィチの反抗』をあらためて観る。
BSで放映されたとき、たまたま録画していたもの。そのときは、まだショスタコーヴィチに深く入りこんでいなかった。ファシズムの暴力のもと、抵抗した芸術家のひとりという認識しかもっていなかった。だから、録画してからずいぶん時を隔てて、観ることになった。
それ以来、何度も観た。
あまりに『証言』によるところが大きいことと、ゲルギエフによるショスタコーヴィチの『交響曲第4番』から『交響曲第9番』を「戦争シンフォニー」という枠組に押しこめようとする意識が強すぎ、ショスタコーヴィチの作曲家としてのたくさんの大事な側面がこぼれ落ちてしまっているようで、多少首を傾げなければならないところもあるが、私にとってはショスタコーヴィチの世界に深く入りこむきっかけとなった。
さまざまな人たちの生の証言は貴重なものだ。
全編を通じて『交響曲第4番』が基本ベースに流れている。
『交響曲第4番』のダンス公演のために、連日、いやになるほどこの曲を聞いた。特に、コンドラシンとラトル指揮のもの。毎日、新しい発見の連続。最近は、なぜかショスタコーヴィチの周りにいた人たちの顔が浮かぶ。
「プラウダ批判」を受けて、反論する友人のソレルチンスキー、自分の立場が危険にさらされるのを承知で公然とショスタコーヴィチを擁護する演出家のメイエルホリド、スターリンに抗議するゴーリキー、そしてこのとき生まれたショスタコーヴィチの第一子ガリーナ、等々。
これだけエゴイスティックに曲をつくるショスタコーヴィチであるにもかかわらず、その曲を聞けばきくほど、なぜか人と人のつながり、死者もふくめた人とのつながりへの思いを感じる。
それは、後期の作品になればなるほど強い。
ひとりでは生き延びられなかったという思いからなのか。失った人があまりに多すぎたためか。
『交響曲第4番』を聞くのに少し疲れて、いま『弦楽四重奏曲第15番』を聞いている。
いっそうさまざまな人の顔が浮かび、深い悲しみにつつまれる。それは、ショスタコーヴィチがこれらの曲を残してくれたことへの感謝の時間でもある。
posted by NIHEI at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月28日

#0024

#0024.jpg
ショスタコーヴィチの資料を見直す作業。
一本のビデオが出てきた。
『アシュケナージ 自由へのコンサート〜独裁者と芸術家たち〜』
NHKで以前放映されたもの。
スターリン体制下のショスタコーヴィチ、マンデリシターム、アフマートワ、エイゼンシュテイン、エフトゥシェンコなどの芸術家がとりあげられている。
そのなかで、ふたりの詩人、マンデリシタームとアフマートワをとりあつかった歌劇『獣のような我が時代』が流れる。
最も興味のある詩人ふたりである。
パステルナークとともに、この時代を代表するマンデリシタームは、『クレムリンの山男』という詩を朗読して二度流刑され、不幸な死を遂げている。
アフワートワは、ツヴェターエワと並ぶソビエトを代表する女流詩人。夫は銃殺、ひとり息子は逮捕。
この歌劇『獣のような我が時代』(2002年)は、シチェドリン作曲。
シチュドリンといえば、新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会で、『ショスタコーヴィチとの対話』が日本初演された。
シチュドリンは、1932年生まれ。ソビエト時代から活動している。彼もまた、あまり日本では紹介されていないソ連時代の興味深い音楽家のひとりである。
posted by NIHEI at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

#0023

#0023.jpg
ショスタコーヴィチの『交響曲第4番』
様々な指揮者。
ケーゲル、ハイティング、ロジェストヴェンスキーにカエターニ、etc.
個人的に最も惹かれるのは、初演の指揮者であるキリル・コンドラシン指揮による63年ドイツ初演ライブ。
しかし、あまりに録音状態が悪い。
『交響曲第10番』で最も気に入っているのが、カラヤン率いるベルリンフィルの1969年ロシア・ライブであることと同じだ。
もちろん、コンドラシンの62年の録音は素晴らしい。
そして、非の打ちどころがないのが、サイモン・ラトル指揮バーミンガム・シンフォニー・オーケストラの演奏。
そういったさまざまな演奏のなかで、演奏の優劣は別として、気になった指揮者が二人。
チュン・ミュン・フンと芥川也寸志。
どちらもアジア人。
チュン・ミュン・フン指揮フィラデルフィア・オーケストラの演奏は、爆発的なエネルギーとスピードに驚かされる。残念ながら、すぐにそのスピードに慣れてしまい、逆にスピードが足りないという錯覚に陥ってしまう。(これは、ファシズムの理論と同じ) 当然、楽曲は立体的に構築されない。だが、最初のエネルギーの爆発力は尋常ではない。
芥川也寸志指揮、新交響楽団の演奏は、日本初演である。新交響楽団は、アマチュアこそ音楽の本道と謳っている。健全である。多少技術に難はあるが、重厚でほんとうに素晴らしい演奏だ。
アジア人のエネルギーの源泉は、ヨーロッパ人と違うのはもちろんのこと、ロシア人とも違う。
そこに新鮮で、何か大きな可能性を感じる。
posted by NIHEI at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

#0022

#0022.jpg
2007年に「小沢恵美子 solo-DANCE WORK #01 ショスタコーヴィチ『交響曲第10番』」(設計:二瓶龍彦)上演に際して、ロシア文学・文化の亀山郁夫さんにお話をお聞きした。
(そのインタビュー記事は、上演パンフレットに掲載)
初めてということもあり、話は「スターリン学」からスターリン体制化での芸術家たちの生き方、そしてショスタコーヴィチの『交響曲第10番』と広範囲にわたった。
『交響曲第4番』を上演するにあたってときも、亀山さんにお話をうかがった。前回の公演の感想からはじまり、2度目ということもあり、より具体的に『交響曲第4番』の話となる。
より実験的な上演にしたいと言うと、亀山さんは笑いながらこう言った。
「きっとショスタコーヴィチも喜んでくれると思いますよ」
そして、さまざまな可能性を話した。
(このインタビュー記事も、当日無料配布される上演パンフレットに掲載)
亀山さんの魅力は、ある意味ナイーブなストレートさにあるのではないかと感じる。それが、同じ時代を生きる者として、正直で誠実な態度につながっているのではないかと。
亀山さんのドストエフスキーの新訳『カラマーゾフの兄弟』が爆発的に売れているのも、そんなところに起因しているのではないか。
個人的には、『磔のロシア―スターリンと芸術家たち』『熱狂とユーフォリア―スターリン学のための序章』『大審問官スターリン』を堪能した。
ファシスト学ともいうべき、亀山さんの世界のとらえ方は、ある種、危険性と背中合わせでもある。それは、佐藤勝氏との対話『ロシア闇と魂の国家』 (文春新書)を読むと、はっきりとわかる。帝王、絶対君主、ファシストたちが抱えているナイーブさと、どこかリンクするように感じられる。
それが、あらためてドストエフスキーを通過し、つまりあらためて近代を通過し、どこに着地し、結実するのか、それは楽しみのひとつである。今までの権威主義者とは、同じ道は通らないだろう。

「わたし個人としては、本当に芸術を理解できるような死刑執行人には、これまで一人としてお目にかかったことがない」  ドミトリー・ショスタコーヴィチ
posted by NIHEI at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | #0021〜#0030 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする